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2010年10月 アーカイブ

布団の歴史を紐解く

天保6年(1835)の『北越雪譜』をみると、貧しい村落の生活を記しています。


もっとも、ここにも記しているように、かつては特に寝具というようなものはなかったのですが、江戸時代にはいってから、この山村のうちで、ただ二軒だけは夜具を備えるようになったという記述が続いています。


・・・しかし、その夜具というものも、「夜着・蒲団」の類ではなくて、じつはオロ(イラクサ)の繊維で織った布を用い、綿のかわりにオロの屑を中に入れたいわば代用品。


しかも、それはもっぱら来客の用に備えたものであったというのです。


天明4年(1789)に秋田を旅行した菅江真澄の紀行『鰐田濃刈寝』にも、この地方では海藻を乾燥させて寝具を作る貧困な生活のあったことが語られています。


また、東北地方にはヨブスマ(訛ってユブシマともエブスマともいった)というものがありました。


これは


「大きな麻の衣の中にオグソ(苧津・大麻の表皮のこと)を入れて脱け落ちぬように糸で細かく綴じたものや、麻のポロ切れを重ねて刺した夜具のこと」


・・・だそうです。


そして、


「ワラの上に寝てこれを掛け、更に上からワラをかける。」


・・・という就寝風俗が長く行なわれていました。


このような寒村に存続していた貧しい寝具の例は枚挙にいとまないものです。


江戸の市中においても天徳寺(てんとくじ)とよばれる紙の寝具が用いられていたことは注目しておく必要があるでしょう。

紙の布団の寝心地は・・・

『守貞漫稿』には、江戸の困民や武家の奴僕たちは、夏に使っていた紙帳(紙製の蚊帳=紙のかや)を秋に売ります。


かしこい商人がこれにワラシベ(藁の穂の蕊)などを入れて周りを縫い、裳に仕立てて売り出すのです。


・・・すると、困民奴僕等がこれを買って布団がわりに寒風を防ぐ、という風俗がえがかれています。


もっとも天徳寺の使用層が減少してきているさまを伝えていますから、木綿の進出におされて享保(1716~35)以来は消減への一途をたどったとみていいようですね。


江戸の笑話や川柳にも天徳寺がでてきます。


これは安永2年(1773)の『聞上手』からのぬき書きですが、「この上もない貧乏人」が天徳寺を引っかぶって寝ています。


よりにもよってこんな所へ盗人がはいって、あまりの貧しさにびっくりするところが笑いをさそうのでしょう。


これは『柳多留』にある文化年間の川柳ですが、貧乏な病人に対する藪医者(やぶい)の荒っぽい診察ぶりが目にみえるようですね。


紙の寝具をなぜ天徳寺とよんだかは興味のもたれるところですが、億測がある程度で、江戸時代にもそのゆらいはわからずじまいであったようです。


なお、東京の王子にある製紙博物館には天徳寺かと思われる紙のフトンが保存されています。


和紙に柿渋をしいたカッパのような紙をつなぎ合わせ、ちょうどフトソの大きさに仕立てたもので、これを何枚か綴じ合わせてあるからかなり丈夫です。


しかし、羽毛 布団と違ってけっこう重いそうです。

近代の睡眠生活と布団

前回の話は、紙帳にワラシベを入れて作ったというさきの話とは即応しない点があるのもひとつの問題でしょう。


この点に関していえば、楮(こうぞ)や雁皮(がんび)の紙を厚く作って渋をひき、揉んで柔軟性をもたせて毛布のような寝具を作る奈良県吉野の十津川方面にあったカミフスマ(紙裳)の方が、製紙博物館の実物に符合する面が多いようにも思います。


・・・いずれにしてもまだ研究の余地があるものの、羽毛 ふとんではなく貴重な紙の寝具が現存していることは喜ばしいことですね。


近世初頭に誕生した蒲団は、江戸では夜着・蒲団、上方では大蒲団・敷蒲団と、形の違いによる二形式にわかれたまま、江戸と上方それぞれの伝統を形づくりました。


緩慢ながらも使用層をひろげていったのが、江戸中期から後期にわたっての大勢ではなかったかと思われます。


万事が封建的な感覚の絆(きずな)につながれ、保守的消極的な、いわば後向きの歩みをよぎなくされていた徳川300年に、寝具史がはかばかしい変遷をとげなかったのは、むしろ自然であったといえるでしょう。


しかし、幕末の開港期から明治初頭の文明開化の嵐の中でも、日本の寝具史は、いぜんとして眠りをつけていたのでした。


この変革期には、政治的、経済的な変革はもとより、断髪令のような風俗上の改革にめざましいものがあったことは周知の通りでしょう。


しかしその反面、日本人の基本的な居住形式はほとんど変わらなかったのです。


もちろん、玄関や床の間をはじめとする、家の格式にかかわりのあった約束が、封建的な拘束から解放されたことは、ひとつの革新ではありました。


しかし、その結果は、かえってそれまで制約を加えられていた一般民衆が、支配階級の封建的な住居構造を模倣して、玄関や床の間を一般化させる逆行現象を生むこととさえなったのでした。

明治時代の寝具革新

今回は、明治から大正初頭にかけての日本人の生活様式についてです。


ちょうど彼らが洋服の下に昔ながらの褌(ふんどし)をつけていたと同じように、生活の内部にいくほど保守的な傾向を強くもった、いわば見せかけだけの文明開化の実情を、あからさまに示すものでした。


この時期、玄関や御座敷という接客部がとても発達しました。


しかしその反面、台所とか寝室といった居住部がなおざりにされる日本住宅の跛行現象は、ふりかえって考えてみると、古代末期の塗籠いらい中世・近世を通じて長いあいだ上層階級を支配した伝統的な生活様式を背負ってきたものでした。


ですから近世初頭に寝具の羽毛 フトンが出現して、寝具の上に改良とくふうが加えられたからといって、居住部に対する認識があらたまったわけではありません。


蒲団が日の当たる場所に飾られるというようなことは、嫁入りの風俗と遊郭の飾り夜具と例外として、日本の生活史ではまずありえないことなのでした。


そうした背景のあるところで、明治にはいると安価な外綿の流入が契機となって、蒲団がしだいに一般庶民の住宅に浸透してきました。


ですから、その過程にあらわれた現象に万年床というはなはだ非衛生的な寝具風俗があったのも故なきことではなかったのです。


寝室にあてられる空間(主として納戸)は、住宅の中でも窓もなく、通風的な部分にめぐまれない、文字通り日の当たらない部分でもありました。


そこに、従来の寝筵(ねむしろ)や天徳寺にかわって、吸湿性の高い綿蒲団が持ちこまれ、以前の習慣のままにそれを昼も夜も敷きっぱなしにしたのです。

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