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睡眠 アーカイブ

こんにちは

わたしはまるまって睡眠するタイプです。


なのでこんなタイトルにしてみました。


ここでは睡眠や布団などの寝具、快眠グッズに関するさまざまな情報をのせていきたいと思っています。


よろしくおねがいします。


まずは布団の歴史から勉強していきましょう。


近世庶民の寝具に、片袖夜着(かたそでよぎ)というものがあります。


木綿の国内生産が普及するのとほぼ時を同じくして、近世初期に「夜着・蒲団」さらに京阪では「大蒲団」といった綿入りの夜具が用いられるようになりました。


しかしそれだからといって、国内の各家庭にこうした寝具が浸透していったと早合点してはなりません。


なぜならそれはまだまだ高価なもので、とても庶民が手軽に買いととのえることのできるような代物ではなかったからです。


たとえば渡辺畢山の書いた『退役願書』の文中に、ちょっとわれわれの想像をこえた貧困な生活のさまを記しています。


しかも畢山は一介の貧乏画かきでもなければ、貧民の出身でもないのです。


幕末の洋学者であり南画の名手として名高い一流の文化人、しかも本職は三河国田原藩士であり一時は定府(江戸詰)の年寄役末席を勤めたひとかどの人物。


父は同じく田原藩士定通といいますから、れっきとした武士の出でした。


しかし、その渡辺華山の母が、夏は破れ畳の上にごろ寝し、冬は炬燵にふせって寒さをしのいだというのですから、一般庶民の就寝生活はほぼ推察できるのではないでしょうか。

昔の人の睡眠生活とは

酒井忠勝(空邦)の家臣で草野文左衛門という人物についても、このような伝があります。


この人物もまた、れっきとした酒井家の藩士でありながら、なかなか夜着をつくるゆとりがなく、ありあわせの綿入布子をひっかけて寝ているしまつでした。


しかも、ようやくのことで作った夜着というのが片袖夜着という、夜着と蒲団とをそれぞれ半分ずつ繋ぎあわせて一枚にしたような寝具でした。


袖を片方だけつけておいてこれを上にひっかけ、のこった半分をぐるっと身体に巻きつけて下に敷くのです。


いわゆる「かしわになって寝る」ことを前提にした戦時用の夜具であったといいます。


太平の世が続くと、人は枕を高くして仰向けになって寝ます。


つまり大の字になって寝ることに不安を感じなくなるようです。


平安末期いらいの絵巻物などに散見された寝室のありさまを垣間見ても、横向きに臥(ふせ)っている場合が多いのであって、大の字になって高いびきといった風俗は少ないですね。


まして戦国の世の武士ともなれば、いざという場合にそなえて、右手の自由を損なわない寝方のくふうぐらいは心得ていたものでしょう。


ここにいう片袖夜着も、その辺の考慮を加えたものであったと想像されます。

布団の歴史を紐解く

天保6年(1835)の『北越雪譜』をみると、貧しい村落の生活を記しています。


もっとも、ここにも記しているように、かつては特に寝具というようなものはなかったのですが、江戸時代にはいってから、この山村のうちで、ただ二軒だけは夜具を備えるようになったという記述が続いています。


・・・しかし、その夜具というものも、「夜着・蒲団」の類ではなくて、じつはオロ(イラクサ)の繊維で織った布を用い、綿のかわりにオロの屑を中に入れたいわば代用品。


しかも、それはもっぱら来客の用に備えたものであったというのです。


天明4年(1789)に秋田を旅行した菅江真澄の紀行『鰐田濃刈寝』にも、この地方では海藻を乾燥させて寝具を作る貧困な生活のあったことが語られています。


また、東北地方にはヨブスマ(訛ってユブシマともエブスマともいった)というものがありました。


これは


「大きな麻の衣の中にオグソ(苧津・大麻の表皮のこと)を入れて脱け落ちぬように糸で細かく綴じたものや、麻のポロ切れを重ねて刺した夜具のこと」


・・・だそうです。


そして、


「ワラの上に寝てこれを掛け、更に上からワラをかける。」


・・・という就寝風俗が長く行なわれていました。


このような寒村に存続していた貧しい寝具の例は枚挙にいとまないものです。


江戸の市中においても天徳寺(てんとくじ)とよばれる紙の寝具が用いられていたことは注目しておく必要があるでしょう。

紙の布団の寝心地は・・・

『守貞漫稿』には、江戸の困民や武家の奴僕たちは、夏に使っていた紙帳(紙製の蚊帳=紙のかや)を秋に売ります。


かしこい商人がこれにワラシベ(藁の穂の蕊)などを入れて周りを縫い、裳に仕立てて売り出すのです。


・・・すると、困民奴僕等がこれを買って布団がわりに寒風を防ぐ、という風俗がえがかれています。


もっとも天徳寺の使用層が減少してきているさまを伝えていますから、木綿の進出におされて享保(1716~35)以来は消減への一途をたどったとみていいようですね。


江戸の笑話や川柳にも天徳寺がでてきます。


これは安永2年(1773)の『聞上手』からのぬき書きですが、「この上もない貧乏人」が天徳寺を引っかぶって寝ています。


よりにもよってこんな所へ盗人がはいって、あまりの貧しさにびっくりするところが笑いをさそうのでしょう。


これは『柳多留』にある文化年間の川柳ですが、貧乏な病人に対する藪医者(やぶい)の荒っぽい診察ぶりが目にみえるようですね。


紙の寝具をなぜ天徳寺とよんだかは興味のもたれるところですが、億測がある程度で、江戸時代にもそのゆらいはわからずじまいであったようです。


なお、東京の王子にある製紙博物館には天徳寺かと思われる紙のフトンが保存されています。


和紙に柿渋をしいたカッパのような紙をつなぎ合わせ、ちょうどフトソの大きさに仕立てたもので、これを何枚か綴じ合わせてあるからかなり丈夫です。


しかし、羽毛 布団と違ってけっこう重いそうです。

近代の睡眠生活と布団

前回の話は、紙帳にワラシベを入れて作ったというさきの話とは即応しない点があるのもひとつの問題でしょう。


この点に関していえば、楮(こうぞ)や雁皮(がんび)の紙を厚く作って渋をひき、揉んで柔軟性をもたせて毛布のような寝具を作る奈良県吉野の十津川方面にあったカミフスマ(紙裳)の方が、製紙博物館の実物に符合する面が多いようにも思います。


・・・いずれにしてもまだ研究の余地があるものの、羽毛 ふとんではなく貴重な紙の寝具が現存していることは喜ばしいことですね。


近世初頭に誕生した蒲団は、江戸では夜着・蒲団、上方では大蒲団・敷蒲団と、形の違いによる二形式にわかれたまま、江戸と上方それぞれの伝統を形づくりました。


緩慢ながらも使用層をひろげていったのが、江戸中期から後期にわたっての大勢ではなかったかと思われます。


万事が封建的な感覚の絆(きずな)につながれ、保守的消極的な、いわば後向きの歩みをよぎなくされていた徳川300年に、寝具史がはかばかしい変遷をとげなかったのは、むしろ自然であったといえるでしょう。


しかし、幕末の開港期から明治初頭の文明開化の嵐の中でも、日本の寝具史は、いぜんとして眠りをつけていたのでした。


この変革期には、政治的、経済的な変革はもとより、断髪令のような風俗上の改革にめざましいものがあったことは周知の通りでしょう。


しかしその反面、日本人の基本的な居住形式はほとんど変わらなかったのです。


もちろん、玄関や床の間をはじめとする、家の格式にかかわりのあった約束が、封建的な拘束から解放されたことは、ひとつの革新ではありました。


しかし、その結果は、かえってそれまで制約を加えられていた一般民衆が、支配階級の封建的な住居構造を模倣して、玄関や床の間を一般化させる逆行現象を生むこととさえなったのでした。

明治時代の寝具革新

今回は、明治から大正初頭にかけての日本人の生活様式についてです。


ちょうど彼らが洋服の下に昔ながらの褌(ふんどし)をつけていたと同じように、生活の内部にいくほど保守的な傾向を強くもった、いわば見せかけだけの文明開化の実情を、あからさまに示すものでした。


この時期、玄関や御座敷という接客部がとても発達しました。


しかしその反面、台所とか寝室といった居住部がなおざりにされる日本住宅の跛行現象は、ふりかえって考えてみると、古代末期の塗籠いらい中世・近世を通じて長いあいだ上層階級を支配した伝統的な生活様式を背負ってきたものでした。


ですから近世初頭に寝具の羽毛 フトンが出現して、寝具の上に改良とくふうが加えられたからといって、居住部に対する認識があらたまったわけではありません。


蒲団が日の当たる場所に飾られるというようなことは、嫁入りの風俗と遊郭の飾り夜具と例外として、日本の生活史ではまずありえないことなのでした。


そうした背景のあるところで、明治にはいると安価な外綿の流入が契機となって、蒲団がしだいに一般庶民の住宅に浸透してきました。


ですから、その過程にあらわれた現象に万年床というはなはだ非衛生的な寝具風俗があったのも故なきことではなかったのです。


寝室にあてられる空間(主として納戸)は、住宅の中でも窓もなく、通風的な部分にめぐまれない、文字通り日の当たらない部分でもありました。


そこに、従来の寝筵(ねむしろ)や天徳寺にかわって、吸湿性の高い綿蒲団が持ちこまれ、以前の習慣のままにそれを昼も夜も敷きっぱなしにしたのです。

日本人の就寝生活の変化

万年床そのものは明治時代にはじまったわけではありません。


しかし、吸湿性の高い蒲団の使用が、かえって日本人の就寝生活の条件を悪くしたともいえるでしょう。


この万年床の慣習は明治後半から大正にわたってようやく改善の方向にむかいます。


しかし、それは衛生思想にリードされたものではなく、押入れ(押しこみともいった)という部屋の多角的使用を目的としたアイデアに導かれた現象でした。


近世の町家や農家などの平面図をみてもすぐ気付くことですが、押入れという、部屋に付属した収納部のある例はまず見当たりませんね。


ですから時代物のテレビドラマなどで、押入れに人がかくれたりする場面があるのは間違いで、もしかくれるならば納戸(なんど)部屋にでもはいった方がいいわけです。


・・・というわけで、押入れが一般化するのは近代のことですが、それもはじめは作りつけでなく、フトンダンスのような家具がいつしか固定化したと思われます。


ともかく、このフトンダンスや押入れの普及によって綿蒲団の収納場所が固定化し、夜がくると「タタミの上にフトンを敷いて寝る」という日本人の就寝風俗が、ようやくにして成立したわけです。


これは明治40年(1907)に雑誌『新小説』に発表された田山花袋の小説『蒲団』の一節です。


押入れの襖を開けるとそこに敷蒲団と夜着とが重ねてあります。


やがて主人公の時雄はそれをとり出して「其の蒲団を敷き、夜着をかけ、……ビロードの襟に頭を埋めて泣く」のです。


ここには明治末年の東京(話の舞台は牛込の屋敷町という設定である)の就寝風俗がえがかれています。


この文中に蒲団が時にわざわざ敷蒲団とも記されるのは、関西で掛蒲団・敷蒲団・羽毛 フトンが使用される風俗の反映ともみてとれるでしょう。

生活改善運動の挫折

日本住宅における生活空間を改善しようとする積極的なこころみは、第一次世界大戦の後にはじめてあらわれてきました。


それは大戦後の合理主義・能率主義の潮流に乗って叫ばれた大正7、8年にはじまる「生活改善運動」で、中世いらいの古い因習につながれていた日本の居住形式打破して、もっと近代的・合理的なものに改善しようという主張をもった運動でした。


その生活改善運動に、住宅形式の改善が中心課題とされたのは当然でしょう。


「住宅改善要綱」の第一項に、「接客本位を改めて家族本位のものとすること」とあったことは、明治時代から大正初期にいたるまで、ずっと温存されてきた住宅における封建的な空間構造が、ようやく反省されるようになったことを物語っています。


この運動は、大戦後における平和産業の復興の波に乗って進展しました。


その上、大正12年の関東大震災による住宅再建の好機をえたことも幸いして、いやが上にも、大規模な国家的運動の観を呈することとなりました。


しかし、その結果はどうであったかというと、いわゆる「文化住宅」―赤い屋根、モルタルの壁、カーテンつきのガラス窓、椅子・テーブル式で畳のない屋内、とりつけ式のベッド―という、西洋まがいのオモチャのような小住宅などでした。


また、「アパート」という、それをもう一段と圧縮した薄っぺらな共同住宅が、まるで雨後の筍のように群立する景観を現出したのです。


それはたしかに無駄のない、能率的な、そして何となく文化的な匂いもある建物ではありました。


そして、台所とか寝室には、かつての住宅とは比較にならない比重がかけられ、そうした意味ではたしかに健康的、合理的な住宅というべきものでもありました。


しかし、同時にそれは、日本人の生活様式に占める歴史的な伝統の重みとか、日本の自然や土地の風向によって磨かれた羽毛 布団 販売などの生活感覚とかを一切無視した、いわば精神的な砂上の楼閣でもあったのです。


したがってその結果は、震災直後の一時的な復興ブームがおさまると、「文化住宅」の名は、まるで安物建築の代名詞のような蔑(さげすみ)の言葉にかわってしまい、汚名とともにはきすてられてしまったのでした。

布団を敷いて寝る生活のはじまり

こうして、畳の座敷にフトンを敷いて寝るという生活様式が、ふたたび日本人の生活の主流として返り咲いたのでした。


―わたしは大正の生活改善運動そのものが間違っていたとは考えていません。


しかし、その主張にあまりにも忠実であった住宅改善の敗北という事実は、歴史的環境や自然的風土の中に深く根を下した人間の生活というものの実体を、かえって雄弁に物語っているのではないかと思うのです。


明治10年(1877)に来日して日本の生物学や考古学に大きな足跡をのこしたエドワード・モースは、真面目な学究的態度で日本人の家屋と生活環境を観察しました。


それを、"Japanese House and Their Surroundings"1866(日本人の住居とその生活環境)という名著をのこしています。


モースは桂離宮や日光東照宮にいきなりとびつくようなことをせず、普通の日本人の生活を公正な客観的態度で観察しました。


そこで実際に暮らし、アメリカやヨーロッパの羽毛 布団 通販や住宅と比較し、体験と観察とを基にしてこの書物を綴ったのです。


しかもこの書物はヨーロッパの知識人のあいだでセンセーショナルな関心を巻きおこしたのでした。


大正末期の生活改善運動と比較して、何と深く正しい見識に貫かれていることか、日本人自身が日本をもっと客観的に正しく見ることがいかに必要であるかを教えられる書物です。

寝具革命の実態

第二次世界大戦の後で、日本の寝具史は再び大きな変革期に直面することとなりました。


そして、その現象はまず素材の面から動きはじめたのです。


掛けぶとんの面についてみると、最初は化繊ワタ、ついで合繊ワタを従来の木綿ワタに代えて使用するこころみが突破口でした。


これらのワタは、木綿ワタにくらべてやや割高ではありましたが、何よりも軽くて、ちょうど高級な布団 羽毛のような感触をあたえる強味があったのです。


初期には吸湿性や保湿力という点では多少の難点があったのですが、弾力性(弾性復元力)が常に一定しているため、木綿ワタの場合のように定期的に打ち直しをするという必要がほとんどないという利点がありました。


一方、これらのワタを包む「側(がわ)」(外被)についてもまた、化学繊維や合成繊維が使用されましたが、それらは絹のような肌ざわりと、木綿よりも高い強靭性を特色としていました。


・・・と同時に、それは織布の当初から、ふとんの寸法に合わせて生産することもでき、加工の工程においても、キルティングによって側(がわ)と中味とを定着させるという、綿(めん)ぶとんは全く違った方法がとられたのです。


この新製品は、従来の蒲団と区別されるため、洋ふとん、洋式掛ふとん(洋風)の名で呼ばれてきたのですが、この名称が与えられた理由は、その素材面の変革と共に、そのデザインの著しい変容のためでもあったと見てよいですしょう。


つまり、古来の蒲団は、もともと着物(呉服物)のために生産された「反物」を応用してつくったものが多く、そのため、その布の幅もデザインも、和服の形姿を前提として決定されてきたものです。

綿屋という業者

洋ふとんの側は、最初からふとんの素材として織られ、もっぱらその用途を目指してデザインされたものです。


その結果に著しい相違が現われるのは、むしろ当然のことといってよいでしょう。


この洋ふとんが誕生したのは昭和30年前後のことでしたが、現在では市場における既製品の大半を占有し、その面でみる限り現在はあたかも洋ふとんの時代といった観を抱かせます。


しかし、これはあくまでも都市社会における二次製品の店頭風景にすぎないのです。


全国的にみた家庭での保有率という点では、またまだ従来の綿寝具が根強い力を発揮しています。


昭和37年度に東京都と青梅商工会議所が関東の五県十都市の消費者を対象として実施した市場調査の報告によると・・・


木綿小幅夜具42パーセント、銘仙夜具24パーセントに対し、洋掛ふとん7パーセントという保有率が現われています。


これは掛ぶとん、敷ぶとんを含めた総合の比率です。


掛ぶとんだけを対象とした場合には、恐らくこの倍に近い指数が現われることになるのでしょうが、それにしてもその保有率は7人に1枚の割合にすぎないことになります。


その後の20年間に、この比率は洋ぶとんに有利な方向に進んでいることは疑いありませんが、大勢をくつがえすにはまだ多少の時間が必要でしょう。


したがって一部のジャーナリズムに唱われているような「寝具革命」があるとしても、それはまだ将来のことに属することになります。


しかし、現在われわれの当面しつつある問題に、高級 羽毛 布団などの綿寝具業者が古綿の打ち直しを廃業しつつある現象があります。


かつては綿屋なる業者があって、それが寝具の加工や販売を兼業するものでしたから、古綿の打ち直しは、じつに綿寝具業者の本業であったはずです。

布団の未来

綿屋という業者が本業を廃止して、副業であった寝具の二次製品の販売店、つまり寝具商店に転向しつつあるわけです。


もしこの現象がさらに拡大してくるならば、われわれの家庭にある寝具の木綿ワタは、いつかは廃業せざるを得ないことになるでしょう(木綿ワタの打ち直しは2年に1度が理想とされています)。


・・・してみるとこの現象は単に業界の一角における異変というのみではなく、風俗史上看過ごしえない問題点となる可能性を多分にはらんでいるのです。


以上にもっぱら羽根 布団の面について述べたのですが、敷ぶとんの方面にもほぼ同様の現象が現われています。


従来の敷布団に代わるものとして、合成ゴムのマットレスとかフォーム・ラバーと銘うった製品があらわれたのは昭和25、6年頃でした。


前にあげた市場調査の結果でも、保有率12パーセントとあって、下敷夜具のみを対象とすれば、すでに4人に1人がこの種の製品を使用していたことになります。


この新製品は何よりもまず弾性復元力にすぐれており、したがって打ち直しはもとより、被に干す必要もないという利点が買われたものです。


しかし、使用の結果はかえって寝疲れするという反省があり、学界からもいわゆるフワフワ・ムードに対する警告があって、目下のところ一つの転機に立ち至っているようにもみうけられます。


今ひとつ、畳そのものにも「化学畳」という新製品の出現があります。


これは昭和40年ごろから一般市場に出回ってきたもので、畳表と縁(へり)とは従来と同じですが、床(とこ)が違っています。


従来の畳床は藁を素材としていましたが、化学畳は合成繊維板と発泡体(はっぽうたい)のスチロール樹脂を配合したもので、軽く(従来の畳の4分の1程度)、耐火性があり、湿気やほこりを吸わないといった利点があるといいます。


畳は近世にはいってから寝具としての役割をフトンにゆずったわけですが、畳が日本住宅でどの程度の利用度を保っていくかは、将来の住宅構造あるいは生活様式に重大なかかわりがあります。


ひいては未来の寝具史にもかかわりがある以上、畳の行方も決して軽視すべきでないと考えています。

徐波睡眠

今日は徐波睡眠について。


睡眠が深くなるにしたがって、周波数のおそい波(これを徐波という)が多くなり、眠りが浅くなってくると徐波が少なくなって、覚醒時に近いパターンになってくる、ということがはっきりしてきたのです。


これで睡眠と脳波の研究は一段落したかたちとなっていました。


・・・ところが、脳波と共に睡眠中の目の動きの研究をしていたアメリカのクレイトマンとアゼリンスキーは、睡眠中に急速な眼球運動が起こり、その時期の脳波が、浅い睡眠期のパターンであるにもかかわらず目覚めにくい・・・


という状態を発見したのです。


これが1953年のことですからまだ60年前の出来事です。


この睡眠は、それまで考えられていた睡眠とは質的にも異なることが段々とわかってきました。


その結果、羽根 布団 通販での睡眠には"レム睡眠"と"ノンレム睡眠"の2つの種類があることがはっきりしてきました。


レム睡眠とノンレム睡眠

今日はレム睡眠とノンレム睡眠についてl。


このレム睡眠の発見は脳波の発見にもまして、睡眠研究の発展に一段と拍車をかけることになったのです。


レム睡眠という名称は、急速眼球運動のみられる眠り、ということで、その頭文字のR・E・Mをとってつけられたものです。


このレム睡眠は、脳波が覚醒波に近いことから"賦活睡眠"といわれたり、脳波と睡眠深度が一致しないことから"パラドキシカルスリープ"は"パラ睡眠"と名づけています)とも呼ばれていました。


しかし、最近では国際的にもレム睡眠で統一されてきました。


レム睡眠が発見されてからは、睡眠の研究には脳波だけでなく同時に眼球運動、筋電図、呼吸運動などを記録することが必要となります。


これらを同時に記録したものをポリグラフィといいます。


羽毛 掛け 布団で一晩経過をみる場合には、終夜にわたってこのポリグラフィを記録するわけです。


最近は機械も改良されてきて小型で便利なものもできています。


レム睡眠にはポリグラフィ上3つの大きな特徴があります。


レム睡眠とノンレム睡眠 2

第1は、脳波が浅い睡眠時(睡眠ステージ1に近い状態)と同じような状態にあり、第2に急速眼球運動(おもに水平方向)がみられること。


第3番目は抗重力筋(一般には願筋の筋電図を記録しています)の筋放電が消失している、ということです。


レム睡眠の判定は、この3つの特徴によっておこなわれます。


ノンレム睡眠は、浅い睡眠であるステージーからステージ4の深い睡眠まで、4つの段階にわけられています。


覚醒状態では、脳波は9から12ヘルッのアルファ波が多くみられ、東洋羽毛工業による筋電図ではかなり高いレベルで持続的に出現し、時々速い眼球運動とまばたきが出現します。


ノンレム睡眠のステージ1では、比較的低電位の、さまざまな周波数の脳波が出現してきます。


アルファ波はほとんど消失し、外見上はウトウトしている状態であり、傾眠(刺激で意識を回復するが、すぐ意識が混濁してしまう状態)といった状態です。


ステージ2では、脳波は中等度振幅の不規則な徐波とともに、2つの特徴的な波形がみられます。


その1つは、12~14ヘルツの紡錘波(スピンドル)とよばれるものです。


もう一つはKI複合波といわれるものです。


・・・これは外界からの感覚刺激(たとえば拍手など)で出現する大きな徐波と、それに続いて起こる14ヘルツ前後の速波とからなっています。

睡眠のメカニズム

Kl複合波は、このステージ2で感覚刺激をあたえれば簡単に誘発することが出来ます。


ですから睡眠脳波の検査をしている時に、被験者がある程度眠ったと思われたら、軽い音などをたててこの波が出現するのを確かめます。


感覚刺激が強すぎると、被験者は覚醒してしまいます。


ですからこのKI複合波は、外来刺激に対する、眠っている人の応答であろうと考えられています。


イビキ・歯ぎしり・寝言。


このステージ2では、イビキや歯ぎしりなどの異常現象がみられます。


寝言もこのステージ2で起こることが多いのです。


レム睡眠の時期にも寝言がみられますが、レム睡眠の時の寝言は、感情がこもっているといわれています。


瘤波(ハンプ)。


またステージ1の末期からステージ2にかけては、このKI複合波の前半の部分である徐波だけが出現し、これを瘤波(ハンプ)と呼んでいます。


さらに羽毛 布団によって睡眠が深くなると、ノンレム睡眠ステージ3となってきます。


ステージ1と2は浅い睡眠と考えられ、ステージ3と次のステージ4は深睡眠といわれます。

人はどれくらい起きていられるのか

正しく睡眠-覚醒のリズムをチャンと保ちながら起きつづけることのできる限界は、1桁の数字の加算を一定時間連続して行ない、その能率によって精神作業力をみるものです。


フリッカー・テストは、光を変化的に断続させて、それを連続光と見るか、断続光と見るかの弁別力を調べます。


その装置の一例があるのですが、断続回数を漸減していき、ちらつきが見えはじめる回転数をもってフリッカー値とするのです。


一般に脳幹謂様体の刺激によって大脳皮質の活動水準が上がるとフリッカー値は高まり、反対に疲労によってその活動水準が下がるとフリッカー値も低下するのです。


脳波を調べたミトニクとアーミントンの報告によると、α波が減少し、時には全く消失するのです。


また「逆説α波」なる現象がみられます。


すなわち、「正常時ならばα波をブロックするはずの朝が逆にα波を引き出す」のであって、これは睡気におちいった被験者に刺激が茄わると、正常の安定した覚醍に似た状態に引きもどされることを示しています。


このように羽毛 ふとんでの睡眠の実験にはさまざまなものがあります。


人はどれくらい起きていられるのか 2

開眼時間にもα波が連続して現われたり、半醒状態の時には一過性に高振幅の徐波が出たりするのです。


このような脳波の変化にもかかわらず、被験者は


「自分はしっかりしています。意識ははっきりしています」


・・・と言い張って、その意識水準の低下を否定するのが特徴的です。


つまり断眠時の意識状態と自己判断は、正常唾眠者とちがって微妙なズレを起こしているのです。


(そこで断眠者の精神状態は、これを単に被験者に対する問診だけではきめられず、何らかの客観的検査によらなければ誤りを冒すことになるでしょう)。


心理学的検査では、連続加算(クレペリン・テスト)、反応時間、判別、記憶記銘などの各種のテストに、一般に共通の傾向がみられます。


それは、短時間のテスト値は正常または正常に近いのですが・・・


検査時間が長びくと羽毛 フトンを見ただけで睡気の発作や放心状態に伴って反応の脱落や錯誤が生まれ、成績が悪くなることです。


人はどれくらい起きていられるのか 3

ラブランドなどはロールシャッハ・テストを用いて、その被験者が断眠すれば幻覚を起こすかどうか予言できるといっています。


・・・以上は量的変化ですが、断眠がひ錯覚から幻視、幻聴、被害妄想、関係・心理的変化その他多数のこの種の実験があります。


一まとめにしてみると、断眠によって生じる精神的変化のうちで、1番目立つのはやはり意識状態の変化です。


はっきりした目ざめの状態を保つのが困難になり、睡気、短時間の放心、半睡半夢などをきたし、それに1致して脳波の律動異常を起こします。


脳波に関しては、羽毛 布団 販売をしている会社による実験などの種々の報告がありますが、たとえば72時間の断眠までが報告されています。


またある博士らは、断眠が心身のストレスとなって、潜在的な分裂病を誘発することすらあると主張しています。


断眠による生理的変化は、その断眠の程度および個体差によってさまざまです。


一般にいろいろの生理機能は最初のうちは正常の範囲内であって、断眠がすすむにつれて次第に変化するのです。


同じ時刻に毎日起床

早寝早起きでなく、早起きが早寝に通じます。


日曜に遅くまで床で過こすと、月曜の朝がつらくなります。


・・・一般的に規則正しい生活イコール早寝早起きと信じられてきました。


しかし、毎朝同じ時刻に起床し、起床後なるべく早く太陽の光を浴びることが速やかで快適な入眠をもたらすことがわかっています。


起床後太陽の光を浴び、体内時計のリズムがリセットされると、そこから約15~16時間後に眠気が出現します。


早寝早起きの生活パターンにしたい場合には、早寝から始めるのではなく、早起きして朝の散歩などで太陽の光を浴びることが第一歩です。


週末、少しでも睡眠時間を稼ごうと朝遅くまで羽毛 布団の中で過ごすと、朝の光を浴びることができないため、その晩はさらに寝つきが遅くなり、月曜日の朝に起床するのがつらくなります。


・・・このような場合は、日曜日にもいつもと同じ時刻に起床し、朝の光を浴びるようにします。


目が覚めたら日光を取り入れよう

起床後、太陽の光を浴び体内時計のリズムがリセットされると、そこから約15~16時間後に眠気が出現します。


光による朝のリセットが行われないと、その夜に寝つくことのできる時刻が約1時間遅れます。


通常室内の明るさは太v陽光の10~20分の1程度で、曇りの日でも屋外では室内の5~10倍の明るさがあります。


このため、起床後2時間以上、暗い室内にいると体内時計のリセットが行われないのです。


体内時計のリズムをきちんとリセットするには、起床後なるべく早く太陽の光を浴びる必要があります。


家の中にいることが多く、太陽光に暴露される時間が少ないと、実質的な日長時間が短くなり、身体が冬のモードになるため睡眠が浅くなりかつ延長します。


日本では、蛍光灯による明るめの室内照明が好まれますが・・・


過度に明るい夜間の室内照明は、体内時計のリズムを遅らせることとなり、布団 羽毛で自然な入眠時刻が遅れるのです。

朝食は心と体の目覚めに重要!

1日が始まる朝、しっかり食べて栄養を摂取することは、脳へのエネルギー補給となり、体温を高め、活動レベルを高めることに役立ちます。


規則正しく朝食を摂っていると、この1時間ほど前から消化器系の活動が活発になり、朝の目覚めを促進します。


夜食を食べ過ぎると寝つきが悪くなり、夜中に目が覚め、睡眠の質が悪化することがあります。


食物の消化が終了せず、羽毛 ふとんで眠る時間帯に消化器系が活発に活動していると、睡眠が妨げられます。


特にタンパク質の多い食物でこの傾向が強いですね。


空腹のため寝つけない場合には、消化のよいものを少量、たとえば、牛乳や軽いスナックなどをとります。


昼間の運動が夜間の睡眠を安定させ、睡眠の質を改善することがわかっています。


日本で成人に対して行われた調査では、運動習慣のある人は不眠になりにくいという結果がでているのです。


運動の内容は、30分程度の散歩・ランニング・水泳・体操・ストレッチなどで、軽く汗ばむ程度がよいでしょう。


好みや体力に応じて無理のない長続きする方法をとり、毎日規則的に行うのが効果的です。


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