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ふとん アーカイブ

こんにちは

わたしはまるまって睡眠するタイプです。


なのでこんなタイトルにしてみました。


ここでは睡眠や布団などの寝具、快眠グッズに関するさまざまな情報をのせていきたいと思っています。


よろしくおねがいします。


まずは布団の歴史から勉強していきましょう。


近世庶民の寝具に、片袖夜着(かたそでよぎ)というものがあります。


木綿の国内生産が普及するのとほぼ時を同じくして、近世初期に「夜着・蒲団」さらに京阪では「大蒲団」といった綿入りの夜具が用いられるようになりました。


しかしそれだからといって、国内の各家庭にこうした寝具が浸透していったと早合点してはなりません。


なぜならそれはまだまだ高価なもので、とても庶民が手軽に買いととのえることのできるような代物ではなかったからです。


たとえば渡辺畢山の書いた『退役願書』の文中に、ちょっとわれわれの想像をこえた貧困な生活のさまを記しています。


しかも畢山は一介の貧乏画かきでもなければ、貧民の出身でもないのです。


幕末の洋学者であり南画の名手として名高い一流の文化人、しかも本職は三河国田原藩士であり一時は定府(江戸詰)の年寄役末席を勤めたひとかどの人物。


父は同じく田原藩士定通といいますから、れっきとした武士の出でした。


しかし、その渡辺華山の母が、夏は破れ畳の上にごろ寝し、冬は炬燵にふせって寒さをしのいだというのですから、一般庶民の就寝生活はほぼ推察できるのではないでしょうか。

昔の人の睡眠生活とは

酒井忠勝(空邦)の家臣で草野文左衛門という人物についても、このような伝があります。


この人物もまた、れっきとした酒井家の藩士でありながら、なかなか夜着をつくるゆとりがなく、ありあわせの綿入布子をひっかけて寝ているしまつでした。


しかも、ようやくのことで作った夜着というのが片袖夜着という、夜着と蒲団とをそれぞれ半分ずつ繋ぎあわせて一枚にしたような寝具でした。


袖を片方だけつけておいてこれを上にひっかけ、のこった半分をぐるっと身体に巻きつけて下に敷くのです。


いわゆる「かしわになって寝る」ことを前提にした戦時用の夜具であったといいます。


太平の世が続くと、人は枕を高くして仰向けになって寝ます。


つまり大の字になって寝ることに不安を感じなくなるようです。


平安末期いらいの絵巻物などに散見された寝室のありさまを垣間見ても、横向きに臥(ふせ)っている場合が多いのであって、大の字になって高いびきといった風俗は少ないですね。


まして戦国の世の武士ともなれば、いざという場合にそなえて、右手の自由を損なわない寝方のくふうぐらいは心得ていたものでしょう。


ここにいう片袖夜着も、その辺の考慮を加えたものであったと想像されます。

布団の歴史を紐解く

天保6年(1835)の『北越雪譜』をみると、貧しい村落の生活を記しています。


もっとも、ここにも記しているように、かつては特に寝具というようなものはなかったのですが、江戸時代にはいってから、この山村のうちで、ただ二軒だけは夜具を備えるようになったという記述が続いています。


・・・しかし、その夜具というものも、「夜着・蒲団」の類ではなくて、じつはオロ(イラクサ)の繊維で織った布を用い、綿のかわりにオロの屑を中に入れたいわば代用品。


しかも、それはもっぱら来客の用に備えたものであったというのです。


天明4年(1789)に秋田を旅行した菅江真澄の紀行『鰐田濃刈寝』にも、この地方では海藻を乾燥させて寝具を作る貧困な生活のあったことが語られています。


また、東北地方にはヨブスマ(訛ってユブシマともエブスマともいった)というものがありました。


これは


「大きな麻の衣の中にオグソ(苧津・大麻の表皮のこと)を入れて脱け落ちぬように糸で細かく綴じたものや、麻のポロ切れを重ねて刺した夜具のこと」


・・・だそうです。


そして、


「ワラの上に寝てこれを掛け、更に上からワラをかける。」


・・・という就寝風俗が長く行なわれていました。


このような寒村に存続していた貧しい寝具の例は枚挙にいとまないものです。


江戸の市中においても天徳寺(てんとくじ)とよばれる紙の寝具が用いられていたことは注目しておく必要があるでしょう。

紙の布団の寝心地は・・・

『守貞漫稿』には、江戸の困民や武家の奴僕たちは、夏に使っていた紙帳(紙製の蚊帳=紙のかや)を秋に売ります。


かしこい商人がこれにワラシベ(藁の穂の蕊)などを入れて周りを縫い、裳に仕立てて売り出すのです。


・・・すると、困民奴僕等がこれを買って布団がわりに寒風を防ぐ、という風俗がえがかれています。


もっとも天徳寺の使用層が減少してきているさまを伝えていますから、木綿の進出におされて享保(1716~35)以来は消減への一途をたどったとみていいようですね。


江戸の笑話や川柳にも天徳寺がでてきます。


これは安永2年(1773)の『聞上手』からのぬき書きですが、「この上もない貧乏人」が天徳寺を引っかぶって寝ています。


よりにもよってこんな所へ盗人がはいって、あまりの貧しさにびっくりするところが笑いをさそうのでしょう。


これは『柳多留』にある文化年間の川柳ですが、貧乏な病人に対する藪医者(やぶい)の荒っぽい診察ぶりが目にみえるようですね。


紙の寝具をなぜ天徳寺とよんだかは興味のもたれるところですが、億測がある程度で、江戸時代にもそのゆらいはわからずじまいであったようです。


なお、東京の王子にある製紙博物館には天徳寺かと思われる紙のフトンが保存されています。


和紙に柿渋をしいたカッパのような紙をつなぎ合わせ、ちょうどフトソの大きさに仕立てたもので、これを何枚か綴じ合わせてあるからかなり丈夫です。


しかし、羽毛 布団と違ってけっこう重いそうです。

近代の睡眠生活と布団

前回の話は、紙帳にワラシベを入れて作ったというさきの話とは即応しない点があるのもひとつの問題でしょう。


この点に関していえば、楮(こうぞ)や雁皮(がんび)の紙を厚く作って渋をひき、揉んで柔軟性をもたせて毛布のような寝具を作る奈良県吉野の十津川方面にあったカミフスマ(紙裳)の方が、製紙博物館の実物に符合する面が多いようにも思います。


・・・いずれにしてもまだ研究の余地があるものの、羽毛 ふとんではなく貴重な紙の寝具が現存していることは喜ばしいことですね。


近世初頭に誕生した蒲団は、江戸では夜着・蒲団、上方では大蒲団・敷蒲団と、形の違いによる二形式にわかれたまま、江戸と上方それぞれの伝統を形づくりました。


緩慢ながらも使用層をひろげていったのが、江戸中期から後期にわたっての大勢ではなかったかと思われます。


万事が封建的な感覚の絆(きずな)につながれ、保守的消極的な、いわば後向きの歩みをよぎなくされていた徳川300年に、寝具史がはかばかしい変遷をとげなかったのは、むしろ自然であったといえるでしょう。


しかし、幕末の開港期から明治初頭の文明開化の嵐の中でも、日本の寝具史は、いぜんとして眠りをつけていたのでした。


この変革期には、政治的、経済的な変革はもとより、断髪令のような風俗上の改革にめざましいものがあったことは周知の通りでしょう。


しかしその反面、日本人の基本的な居住形式はほとんど変わらなかったのです。


もちろん、玄関や床の間をはじめとする、家の格式にかかわりのあった約束が、封建的な拘束から解放されたことは、ひとつの革新ではありました。


しかし、その結果は、かえってそれまで制約を加えられていた一般民衆が、支配階級の封建的な住居構造を模倣して、玄関や床の間を一般化させる逆行現象を生むこととさえなったのでした。

明治時代の寝具革新

今回は、明治から大正初頭にかけての日本人の生活様式についてです。


ちょうど彼らが洋服の下に昔ながらの褌(ふんどし)をつけていたと同じように、生活の内部にいくほど保守的な傾向を強くもった、いわば見せかけだけの文明開化の実情を、あからさまに示すものでした。


この時期、玄関や御座敷という接客部がとても発達しました。


しかしその反面、台所とか寝室といった居住部がなおざりにされる日本住宅の跛行現象は、ふりかえって考えてみると、古代末期の塗籠いらい中世・近世を通じて長いあいだ上層階級を支配した伝統的な生活様式を背負ってきたものでした。


ですから近世初頭に寝具の羽毛 フトンが出現して、寝具の上に改良とくふうが加えられたからといって、居住部に対する認識があらたまったわけではありません。


蒲団が日の当たる場所に飾られるというようなことは、嫁入りの風俗と遊郭の飾り夜具と例外として、日本の生活史ではまずありえないことなのでした。


そうした背景のあるところで、明治にはいると安価な外綿の流入が契機となって、蒲団がしだいに一般庶民の住宅に浸透してきました。


ですから、その過程にあらわれた現象に万年床というはなはだ非衛生的な寝具風俗があったのも故なきことではなかったのです。


寝室にあてられる空間(主として納戸)は、住宅の中でも窓もなく、通風的な部分にめぐまれない、文字通り日の当たらない部分でもありました。


そこに、従来の寝筵(ねむしろ)や天徳寺にかわって、吸湿性の高い綿蒲団が持ちこまれ、以前の習慣のままにそれを昼も夜も敷きっぱなしにしたのです。

日本人の就寝生活の変化

万年床そのものは明治時代にはじまったわけではありません。


しかし、吸湿性の高い蒲団の使用が、かえって日本人の就寝生活の条件を悪くしたともいえるでしょう。


この万年床の慣習は明治後半から大正にわたってようやく改善の方向にむかいます。


しかし、それは衛生思想にリードされたものではなく、押入れ(押しこみともいった)という部屋の多角的使用を目的としたアイデアに導かれた現象でした。


近世の町家や農家などの平面図をみてもすぐ気付くことですが、押入れという、部屋に付属した収納部のある例はまず見当たりませんね。


ですから時代物のテレビドラマなどで、押入れに人がかくれたりする場面があるのは間違いで、もしかくれるならば納戸(なんど)部屋にでもはいった方がいいわけです。


・・・というわけで、押入れが一般化するのは近代のことですが、それもはじめは作りつけでなく、フトンダンスのような家具がいつしか固定化したと思われます。


ともかく、このフトンダンスや押入れの普及によって綿蒲団の収納場所が固定化し、夜がくると「タタミの上にフトンを敷いて寝る」という日本人の就寝風俗が、ようやくにして成立したわけです。


これは明治40年(1907)に雑誌『新小説』に発表された田山花袋の小説『蒲団』の一節です。


押入れの襖を開けるとそこに敷蒲団と夜着とが重ねてあります。


やがて主人公の時雄はそれをとり出して「其の蒲団を敷き、夜着をかけ、……ビロードの襟に頭を埋めて泣く」のです。


ここには明治末年の東京(話の舞台は牛込の屋敷町という設定である)の就寝風俗がえがかれています。


この文中に蒲団が時にわざわざ敷蒲団とも記されるのは、関西で掛蒲団・敷蒲団・羽毛 フトンが使用される風俗の反映ともみてとれるでしょう。

生活改善運動の挫折

日本住宅における生活空間を改善しようとする積極的なこころみは、第一次世界大戦の後にはじめてあらわれてきました。


それは大戦後の合理主義・能率主義の潮流に乗って叫ばれた大正7、8年にはじまる「生活改善運動」で、中世いらいの古い因習につながれていた日本の居住形式打破して、もっと近代的・合理的なものに改善しようという主張をもった運動でした。


その生活改善運動に、住宅形式の改善が中心課題とされたのは当然でしょう。


「住宅改善要綱」の第一項に、「接客本位を改めて家族本位のものとすること」とあったことは、明治時代から大正初期にいたるまで、ずっと温存されてきた住宅における封建的な空間構造が、ようやく反省されるようになったことを物語っています。


この運動は、大戦後における平和産業の復興の波に乗って進展しました。


その上、大正12年の関東大震災による住宅再建の好機をえたことも幸いして、いやが上にも、大規模な国家的運動の観を呈することとなりました。


しかし、その結果はどうであったかというと、いわゆる「文化住宅」―赤い屋根、モルタルの壁、カーテンつきのガラス窓、椅子・テーブル式で畳のない屋内、とりつけ式のベッド―という、西洋まがいのオモチャのような小住宅などでした。


また、「アパート」という、それをもう一段と圧縮した薄っぺらな共同住宅が、まるで雨後の筍のように群立する景観を現出したのです。


それはたしかに無駄のない、能率的な、そして何となく文化的な匂いもある建物ではありました。


そして、台所とか寝室には、かつての住宅とは比較にならない比重がかけられ、そうした意味ではたしかに健康的、合理的な住宅というべきものでもありました。


しかし、同時にそれは、日本人の生活様式に占める歴史的な伝統の重みとか、日本の自然や土地の風向によって磨かれた羽毛 布団 販売などの生活感覚とかを一切無視した、いわば精神的な砂上の楼閣でもあったのです。


したがってその結果は、震災直後の一時的な復興ブームがおさまると、「文化住宅」の名は、まるで安物建築の代名詞のような蔑(さげすみ)の言葉にかわってしまい、汚名とともにはきすてられてしまったのでした。

布団を敷いて寝る生活のはじまり

こうして、畳の座敷にフトンを敷いて寝るという生活様式が、ふたたび日本人の生活の主流として返り咲いたのでした。


―わたしは大正の生活改善運動そのものが間違っていたとは考えていません。


しかし、その主張にあまりにも忠実であった住宅改善の敗北という事実は、歴史的環境や自然的風土の中に深く根を下した人間の生活というものの実体を、かえって雄弁に物語っているのではないかと思うのです。


明治10年(1877)に来日して日本の生物学や考古学に大きな足跡をのこしたエドワード・モースは、真面目な学究的態度で日本人の家屋と生活環境を観察しました。


それを、"Japanese House and Their Surroundings"1866(日本人の住居とその生活環境)という名著をのこしています。


モースは桂離宮や日光東照宮にいきなりとびつくようなことをせず、普通の日本人の生活を公正な客観的態度で観察しました。


そこで実際に暮らし、アメリカやヨーロッパの羽毛 布団 通販や住宅と比較し、体験と観察とを基にしてこの書物を綴ったのです。


しかもこの書物はヨーロッパの知識人のあいだでセンセーショナルな関心を巻きおこしたのでした。


大正末期の生活改善運動と比較して、何と深く正しい見識に貫かれていることか、日本人自身が日本をもっと客観的に正しく見ることがいかに必要であるかを教えられる書物です。

寝具革命の実態

第二次世界大戦の後で、日本の寝具史は再び大きな変革期に直面することとなりました。


そして、その現象はまず素材の面から動きはじめたのです。


掛けぶとんの面についてみると、最初は化繊ワタ、ついで合繊ワタを従来の木綿ワタに代えて使用するこころみが突破口でした。


これらのワタは、木綿ワタにくらべてやや割高ではありましたが、何よりも軽くて、ちょうど高級な布団 羽毛のような感触をあたえる強味があったのです。


初期には吸湿性や保湿力という点では多少の難点があったのですが、弾力性(弾性復元力)が常に一定しているため、木綿ワタの場合のように定期的に打ち直しをするという必要がほとんどないという利点がありました。


一方、これらのワタを包む「側(がわ)」(外被)についてもまた、化学繊維や合成繊維が使用されましたが、それらは絹のような肌ざわりと、木綿よりも高い強靭性を特色としていました。


・・・と同時に、それは織布の当初から、ふとんの寸法に合わせて生産することもでき、加工の工程においても、キルティングによって側(がわ)と中味とを定着させるという、綿(めん)ぶとんは全く違った方法がとられたのです。


この新製品は、従来の蒲団と区別されるため、洋ふとん、洋式掛ふとん(洋風)の名で呼ばれてきたのですが、この名称が与えられた理由は、その素材面の変革と共に、そのデザインの著しい変容のためでもあったと見てよいですしょう。


つまり、古来の蒲団は、もともと着物(呉服物)のために生産された「反物」を応用してつくったものが多く、そのため、その布の幅もデザインも、和服の形姿を前提として決定されてきたものです。

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